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自分がほんとうにおもっていること ―『勇気論』と『デスノート』-

先週は雨の日が多く、読書が捗りました。内田樹先生の『勇気論』を読む中で、「正直」について論じている箇所があり、そこでアニメ版『デスノート』のとあるセリフを思い出し、合点がいったため文章に残してみます。

 

 内田先生は正直について論じる文脈で次のように述べています。

 

僕が「自分のボイス」と呼ぶのは、それに載せると自分がほんとうに思っていること、感じていることを、かなり近似的に表現できる声のことです。自分の思考の流れとか、呼吸とか、身体を動かす時のリズムとかと「合う」声のことです。子どもたちには、そういう声を見つけて欲しいといつも願っています。(『勇気論』152頁)

 

私はこのような文章(自分の欲望、意思、意見など自分のオリジナルだと思われているものについて語られる文章)を読んだとき、「自分がほんとうに思っていること」なんて果たしてあるのだろうか、もしあるとするならどのように生まれるのかといつも考え込んでしまいます。というのも、今晩食べたいものは、デートに着ていく服、意見を求められたときに発言する内容等々はそれぞれ人生のどこかで自分が好きにさせられたもの、イケていると思わされているもの、以前にどこかで聞いた内容であると思われるからです。『勇気論』でもこのように述べられています。

 

  ……僕たちが「自分の正直な欲望」だと思っているものの多くは既製品です。世間が「剥き出しの欲望」と呼ぶもののリストを学習して、それをただ出力しているだけということが(実によく)あります。そして、そんな定型句でも、一度出力してしまうと……自分の口から出た言葉である以上、それに呪縛されてしまう。(同書158)

 

 一方で、「自分がほんとうに思っていること」もなんとなくあるような気もしています。内田先生は、学生が「自分のボイス」で「自分がほんとうに思っていること」を表現する場面に「何度か立ち会った」ことがあり、それは感動的な経験で奇跡的なこと仰っています(同書156)。「自分がほんとうに思っていることが生まれること」が奇跡だと言われれば妙に納得してしまいました。なぜなら、今日着る服、政治的立場、生き方の指針などあらゆることについて「自分がほんとうにおもっていること」をまだ獲得していないと、そわそわしながら悩んでしまう自分ですが、それらを獲得することが奇跡だと言われれば、凡人である自分はまだその域に到達していないのも納得です(自分のボイスを獲得することは困難なことであることも同書では述べられています)。

 

 さて、ここまでは内田先生の正直論の一部を抜粋でした。ではなぜ「正直」の話からアニメ版デスノートが出てくるのか。アニメ版デスノート25話「沈黙」では原作にはないシーンが付け加えられています。その場面でLが夜神月に対して、「生まれてから一度でも本当のことを言ったことがあるんですか?」と問いかける場面があります。それに対して夜神月は「真実のみを口にして一生を終える人間もまた、いないんじゃないか?云々」と返答します。

 

 私はこのシーンを見る度に、何となく違和感を抱いていました。というのも、「生まれてから一度でも本当のことを言ったことがありますか?」は「内心とは異なる意見や思いを発言したことがありますか?」や「事実と違う内容を発言したことがありますか?」等という意味ではないと思ったからです。もしそのような意味なら、それこそ「真実のみを口にして一生を終える人間もまたいない」のだから、そんなわかりきったことをそもそも訊ねる必要がないですよね。

 

Lの言う「本当のこと」が上述した「自分がほんとうに思っていること」であるならば、辻褄が合うように思われます。容姿端麗、頭脳明晰、身体能力にも恵まれた夜神月でしたが、デスノートを拾ったことをきっかけに、彼の歪んだ正義感と相まって、世界中の人から恐(畏)れられる大量殺人犯となります。

 

しかし、どれほど優秀であったとしても、人間的に成熟した人物ではなかった。「正直というのは知性的・感情的に人が成熟するためには絶対に必要なものです。(159頁)」と内田先生は述べていますが、夜神月は正直さを手放したことで、成熟することなく育った優秀なお子ちゃまだったのだと、合点がいきました。