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みちくさ哲学カフェ「ほしい」について

 昨日、記念すべき第1回みちくさ哲学カフェが野沢会館で行われました。最初はスタッフ2名だけで2時間対話することを覚悟していましたが、なんと3名の方が参加してくださいました。

 

 この日のテーマは「欲しい」でした。以下は私個人視点での記録と考えです。

 

 まず、「欲しい」について思い当たることやエピソードなどを出し合いました。

・欲しいものを手に入れると、それまでの強い気持ちが冷めてしまう。

・「物」に対する「欲しい」だけではなく、「私の気持ちをわかってほしい」や「自分を認めてほしい」、「こう思われたい」という承認欲求などの「ほしい」との違いはあるのか?

・「欲しい」という漢字をあまり考えたことがなかった。「ほしい」と「欲しい」ではイメージが違う。

・「欲しい」は「谷」と「欠」でできている。

・「体験をしたい」は「体験が欲しい」と言えるのか?

・自分が欲しいと思わされている気がする。テレビのCMや動画サイトの広告を見ていると、欲しがらされているような気がして嫌だ。

・生きるための「欲しい」(食欲など)とCMを見たり、外からの影響を受けたりした「欲しい」は違うと思う。

・子どもの頃の「欲しい」と大人になってからの「欲しい」は違う。子どもの「欲しい」は「距離感が近い、目の前にある欲しい」。大人の「欲しい」は「将来などを見通した、遠くを加味した欲しい」だと思う。(マシュマロテストっぽい)

・お金がほしい(お金は手段だが)

・幸せになるために知恵がほしい。

・本当の自分になりたい。

 

 「欲しい」から対話が始まり、「~になりたい」や「本当の自分」の「意志」などの話に深まっていきました。そこでは、大きく次のような話が出されました。

 

・「欲しい」や「なりたい」にはエネルギーが必要。

・本当の自分の意志とは、社会の共通認識や親の期待、広告などの外的な要因でつくられる意志と、自身の内側から出てくる意志があるのではないか?

・あるものを「欲しい」と思うとき、即決で買う場合と迷う場合は何が違うのか?

・欲しいものを手に入れることではなく、迷うこと自体が目的なのではないか?

・過去の自身の経験を意味づけたり、将来の自分を想像して、そこから今の意志が出てくることもある

 

 上記の中で、特に私が考えさせられたのは「欲しい」と「迷い」の関係についてでした。

 

 そもそも、何かを欲したときに迷いが生じるのはなぜなのでしょうか?例えとして、「この洋服欲しいな」と思ったときに迷う場合を考えてみましょう。このような時には「ちょっと高いな」、「似たような服を持っているな」、「絶対に必要ではないな」等々と考えているのだと思います。

 

 そして、それらは自分の内側の良心や自分の外側にある社会的常識や社会的によいとされている価値観が前提にあり、それが迷いとなって現れるのではないかと思われます。つまり、何かしらの正しさが迷いを生じさせているのだと思われます。

 

 一方で、何かを欲したときに、全く迷わない場合もあります。好きな歌手のCDや作家の本などが欲しいときには、迷うという選択肢はなく、即決で買うことがあると思います。おそらく、迷う余地がない欲求というものは、「本当の自分」側というか、自分の軸のようなものから生じている欲求なのだと思いました。

 

 また、「迷うことが楽しい」(=迷うこと自体が目的)という話が出ました。こちらは、迷ったり後ろめたいと思ったりすること自体の価値を問い直すテーマとして、非常に面白い切り口だと思います。つまり、一般的には迷うことや優柔不断さはネガティブなものと思われていますが、その前提自体が問い直されてもよいのではないかという、現代のコスパ・タイパなどの価値観を再考するきっかけになると思われます。

 

 以上、ここまで述べてきた内容は私視点の考えです。きっと参加者それぞれの視点で、それぞれの考えがあり、深まりがあれば幸いです。これからも、ゆっくりじっくり対話し、考えを深める場をつくっていきたいと思います。