· 

みちくさ哲学カフェ"Love and Peace"

先日、第2回みちくさ哲学カフェが野沢会館で行われました。今回は前回のメンバーに1名増え、合計6名で対話をしました。

 

この日のテーマは“Love and Peace”でした。今回は参加者の方から、「みんなどう思っているのか気になって」ということで、テーマを出していただきました。「よく愛と平和がセットで使われるけれど、自分の中では愛と平和は結びつかない」というところから対話が始まりました。以下は私個人視点での記録と考えです。

 

「愛」については、主に次のような話が出されました。

・愛があるから戦いがある。守りたいものを守る。何かに執着する。

・英語のLoveと日本語の愛はやっぱり違う感じがする。

・日常生活での使用例:愛着、愛人、愛犬、愛娘・息子・弟子

・愛は宗教感があることばで、その人が信仰する宗教による。

・愛と好きは違う。

・深い愛、広い愛、強い愛でそれぞれニュアンスが異なる。強い愛は危険であったり、歪んでいたりすることがある。

・「内」と「外」に線引きをして、内側の方を愛し外を排除しようとするのだと思う。

・愛とは、自分が求める側面もあるが「運命性」や「偶然性」、あるいは「美しさ」など魅かれる、引きつけられる面もあると思う。そして、自分の美意識が壊されそうなときに戦い(怒り)が起こるのだと思う。

・愛は一方的なものではなく、他者との間で育むもの

・愛は幻想

 

また、「平和」については主に次のような話が出されました。

・平和はみんなで創るもの。

・平和とは、争いや対立がない状況、命の危険がないこと。普通の日常生活が送れること。

・平和は暴力と無縁な感じがするけど、実はそうではない。秩序が保たれている状態は力や暴力があってのもの。

・日本人は波風立てないことが平和だと思っているかもしれないが、我慢している人がいることは平和なのか?

・対立自体は悪いものではないのではないか?

・そういえば、平和学習って何を学習するのか?

 

「愛」と「平和」について、ぐるぐると行ったり来たりしながら、以下のような話が出されました。

・アメリカでは「養子」を実の子と同等に扱う文化のように見えるが、日本では珍しい。

・宇宙人が攻めてきたら人類が団結できるのかもしれない。だけどそれは、内側が広がっただけ。

・「敵」だけではなく、地球温暖化などの「課題」でも人は団結できるのかもしれない。

・一般的に平和は大事だとされているが、なぜ争う映画が流行るのか?(戦争の悲惨さを訴えるものもあるが、戦闘シーンや勝利を楽しむための映画も往々にしてある)。

・人はスリルを求めるのではないが?平和な状態がずっと続くことに飽きる。

・(上の話を受けて)平和の定義が広すぎる。今話していることは感情の起伏の話なのか実際の争いの有無なのか?

・実はスポーツやゲームに熱狂する人に共感できない。勝ち負けが楽しいの?

・勝ち負けではない、その競技そのものの面白さがあると思う。(例:漫画ピンポンのラスト)

 

 

これまた個人的な感想ですが、今回は哲学カフェの難しさとおもしろさを強く感じる会でした。

 

まずは難しさについて。一応ファシリテーター(のつもり)なのですが、今回は特に「対話が深まっているのか?」と悶々としてやっておりました。というのも、「愛と平和」というテーマは「愛」、「平和」、「愛と平和(と並べたときの意味・ニュアンス)」と3つの問い深める部分があり、問いが分散してしまうのでは?という思いが少しだけありました。

 

しかし、「愛と平和」というフレーズに違和感があり(私も安直に発せられるのにはかなりの違和感があります)、その違和感をそのまま対話のテーブルに出すということが哲学対話の醍醐味であり、みんなで考えをぐるぐると巡らせることが面白さなのだと思いました。

 

また、ある方が「美しさ」ということをお話されていました。私にとって「美しさ」は全くの盲点であり、今までの自分の考え方に補助線を引いてもらったような感じがしました。このように、自分の前提が揺るがされたり、ひっくり返されたりすることも哲学対話のおもしろさです(時には恐ろしいかもしれませんが…)。

 

ここまで書いてきたら、先ほど危惧した「問いの分散」は「問いに必要な広がり」なのだと思えてきました。例えば、深い穴を掘ろうと思ったときに、その範囲が狭いととても掘りにくいですが、範囲を広げると掘りやすくなり、より深い地点に達します。きっとそんな感じです。次回もぐるぐると対話を深めていきたいと思います。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    過去、哲学科所属 (日曜日, 15 9月 2024 23:35)

    突然失礼いたします。
    とても興味深い対話だと思い、記事を読み感じたことを書かせていただきます。

    まず私は英語や英語圏に関して精通しているわけではありませんので、想像の範ちゅうでの考察だと捉えていただけらばと思います。

    Love and Peace。
    この言葉は、キリスト教の影響を受け、日本人の宗教観や文化背景に組み込むのに違和感があること。
    日本語訳とされる「愛と平和」(愛=平和)の直訳が間違いの始まりなのではないかということ。
    この2点が、違和感の原因なのではないか。
    1点目はなかなかどうしようもなく感じますが、2点目の切り口からなら、この違和感の正体に近づけるのではないでしょうか。

    もし英語が主題を前に置く言語であるなら「愛と平和」(愛=平和)ではなく「愛、そして平和」(愛>平和)という訳の方が意味合いとして近いのではないか。
    愛に平和は必要ではないが、愛は平和に必要である、と言い換えるのです。
    すると「愛」と「平和」という漠然としている独立した言葉に輪郭が見えてくるのではと考えます。
    ただこの輪郭は「Love and Peace」という中でのそれぞれの言葉の輪郭であって、その本質はまた別の所にあるようにも感じます。

    私自体、考えがまとまりきらず書き出してしまったので、これがまた新たな問いとなれば幸いです。

  • #2

    館長ヤギ (木曜日, 19 9月 2024 17:02)

    過去、哲学科所属様。記事のご感想を教えていただきありがとうございます。確かに、英語と日本語の語感の違い、「と」のニュアンス、「愛」・「平和」の並べ方など、対話を深めることができる切り口だなと思いました。これからも問いや考えを深めていきたいと思います。