· 

哲学プラクティス連絡会・日本哲学プラクティス学会に参加して

先日、哲学プラクティス連絡会・日本哲学プラクティス学会に勇気を振り絞って参加してきました。備忘のために、思ったことを書きなぐっておきます。

 

▶参加してみて

哲学対話については10年以上前に大学で体験して以来、書籍やインターネット、SNSを通して知るくらいだったのですが、(当たり前ですが)多くの方が実際に携わり、研究したり実践したりしている姿を見て、実際に出会いそれぞれの方の思いにふれるというのは非常に大切なことだと、改めて思わされる2日間でした。

 

▶哲学対話は手段なのか、目的なのか

今まで私は哲学対話それ自体を目的とするスタンスでした。しかし、哲学対話のルールがある程度しっかりしたものであり、参加者の主体性をある程度担保するのであれば、哲学対話が(例えば)地域交流の手段となってもよいのかと思い始めました。今回Q行に参加してみたり、様々な形態の哲学カフェの実践を学んだりする中で、ファシリテーションの技術や対話の深さに関わらず、哲学的な何かが生まれる場であれば、なるべく多種多様な場があることの方が重要だと感じました。

 

▶市民活動や行政の文脈における哲学対話

実践報告の中には、地域の商店街や地域包括支援、男女共同参画事業に関連した哲学対話がいくつかありました。その中では、例えば「老い」や「死」など老人ホームや病院などでは話題にしづらい内容でも、哲学対話という場があることで、それらを自身に内面化したり、喪失体験に折り合いをつけたりすることが起こっていたようでした。

 

「本当は(哲学)対話が必要だけれどなかなかオープンに話せない」ということは、福祉や医療だけではなく、家庭や地域、教育、政治、環境など様々な分野であるのだろうと推察されますが、そのような場にいて困っている人が何らかの「対話」(会話、説得、助言、交渉ではなく「対話」)にアクセスできることが大事なのだと思いました。

 

また、何かを広げようとする際にそれを「シンプルにわかりやすくする」と、広がるのは早いが廃れるのも早いというお話がありました。これは本当にその通りだと思うので、手段・目的のバランスや参加者の思い、やり方、公共性等を常に考えていきたいと思いました。

 

▶土壌としての哲学

今回のシンポジウムのテーマは「土壌としての哲学」でした。その中で「何の種を蒔くのか」、「何のために蒔くのか」というお話がありました。自身に照らし合わせて考えてみると、「自分が哲学対話好きであること」や「対話の必要性を強く感じていること」かなと再確認するとともに「安心」も大事なキーワードだと気づきました。きっと自分は自身の周囲の人々や当事者の方々を大切にしながら、たまに見かけるアスファルトを突き破る雑草のようにやっていくのかなと思います。