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記号に抗いたい!『消費社会の神話と構造』

先週、ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』の読書会に参加させていただきました。「すべては消費される『記号』にすぎない」と帯文にあるように、集団的消費社会を考察・批判している本です(否定ではない)。以下はその読書感想文です。

 

▶消費のグラデーション

資本主義社会において、私たちは「生きるための消費」ではなく、「消費のための消費」をしている。「生きるため」とは、「空腹を満たす、雨風をしのぎ、暑さ・寒さを和らげる」などの生物として生きる次元から「早く・遠くへ移動できる」や「文化や芸術を享受する」など技術や芸術などの次元を含む。ここから更に広げると、ものの使用価値を越えた「ブランド」や「~ということ」(例えば○○に住んでいること、○○で購入したということなど)の範囲に入ってくるのだと思う。「生きるための消費」と「消費のための消費」のグラデーションの中で、自分はどの辺にいたいのかを考えさせられました。

 

▶すべては記号

現代ではあらゆるものが記号化されている。個人として考えれば、客と店員、親と子、教員と生徒、先輩と後輩等々。メディアやSNSが垂れ流す流行を挙げればSDGsとかライフワークバランスとかワーケーションとかエシカル消費とか男女平等とかLGBDQとか被災者とか交通事故とか訃報とか…。文字通りすべては記号である。

 

▶記号的関係に抗う。二人称の関係=当事者性と共事者性

それでは記号的関係(例えば「こちらが陰鬱とした気分でいるのに笑顔100%であいさつしてくる店員さんとの関係」や「一般人や著名人の訃報を報道したあと、『次のニュースです』と言って淡々と、同列の事実を列挙して並べるニュース」など)を破ることはできるのでしょうか。たぶん記号的関係から抜け出すことはできないのですが、私は抗いたい。そのためには「二人称の関係」になることが必要なのだと思います。

 

二人称の関係とは「あなたと私の関係」ですが、私があなた(他者)が喜んでいたり、悲しんでいたり、怒っていたり、考えていたりすることに出会うことです。また、視点をひっくり返せば、私の感情や考え、境遇に出会ってもらうことでもあります。これが当事者性を帯びた関係です。

 

しかし、自分を中心とした当事者性では範囲が狭すぎます。原則人間は自分を中心としてしか生きられないですが、それでも、直接の当事者ではないにしても、自身の経験や得られる何かしらの情報を通して、疑似的に当事者性が生まれることがあると思います。それが地域活動家の小松理虔さんの提案する「共事者」という考え方です。

 

もちろん、直接経験している人、そこに実際に訪れて当事者と対話する人、そこを訪れた人を通して知ること、メディアを通して知ることにはグラデーションはあるのでしょう。しかし、どの立場であろうと、多少なりとも当事者性を働かせることで、記号の流れに抗うことはできるのではないでしょうか。

 

▶子どもの視点、土に接すること、時間

 

記号の流れに抗うきっかけとして、「子どもの視点」、「土に接すること」、「時間」なども、自分の中ではとても大事なキーワードです。また書きたくなった時に書いてみようと思います。